阿栗 満(Agri‐man)氏の農的人生(10)屋上菜園・未来のイメージ
2035年初夏、飛行機で東京上空に来た時、眼下に広がっているのは一面の緑のモザイク模様の田園風景だった。ビル砂漠と思っていたがそうではなかった。なんと美しい光景だろう。オーストラリアからの外国人観光客フランクは信じられない思いで眼下の風景を見ている。10年振りに日本に来た。
飛行機から降りてターミナルの建物に移動し、窓から外を見ると、建物の屋上が緑一色、屋上菜園になっていた。空港バスで都心に入ってから気がついたことだが、それぞれのビルが思いを凝らして屋上を菜園化していた。到着先の神田の一般社団法人ジャパンベジタブルコミュイティ(JVEC)が入っているビルの屋上も菜園化されていた。単なる菜園ではなく、ブドウ、レモン、ブルーベリーの果樹類、色とりどりの花、ハーブ類が菜園の野菜の周りで栽培されている。小さな池も作って雨水を溜めている。畑というよりもガーデン的要素も加えた「屋上菜園ガーデン」だ。「屋上菜園ガーデン」であれば見た眼も楽しめる。フランクはJVECの代表でもある阿栗から以下のような説明を受けた。
日本人は工業化、情報化が進めば進むほど、バランスを取るために自然に触れる「農」が重要になることに官民一体となって気付いた
日本には化学農薬、化学肥料を使わない有機栽培の伝統、受け継がれてきたノウハウがある。
有機野菜を栽培して安心、安全な野菜を食料として食べることができるが、それだけではなく、野菜を栽培すると、オキシトシンという幸福ホルモンも分泌される。有機野菜の栽培は新鮮で、美味しい、そして栄養のある野菜を食べて身体の健康に役立つだけでなく、心の健康にも役立つ。一挙両得。精神的には特にうつ病対策としての効果が期待されている。
そしてこれからは有機栽培の菜園をもっと楽しく、そして美しくしていく試みが進められている。四季折々の、彩り豊かな花。そしてブドウなどのいろいろな果物。「菜園ガーデン」だ。
現在JVECは屋上菜園アドバイザーを養成して栽培技術に加えて、屋上菜園の「楽しみ方」も指導している。
毎年8月に東京、大阪で「屋上菜園フェスティバル」を開催している。
東京都は都内の建物の屋上菜園化を促進するための施工費の8割を助成している。
東京都も日本政府も、日本が、東京が、大阪が世界のなかで屋上菜園ガーデン化、都市の自然回復活動の先進国になることを目指している
うつ病対策としての効果がある農作業を取り入れた「アグリヒーリング研修」はスタートしてから既に7年が経過した。毎月1回山梨県と群馬県で開催しているが好評だ。毎回10名以上の参加者がある。
また「屋上菜園フェスティバル」の一環として、農作業フアッション・ショウも開催している。農作業がしやすく、そして美しい服装を競いあっている。特に女性に好評だ。
その晩、フランクは阿栗の招待で銀座のイタリアンレストランで夕食をともにした。夕食のテーブルの中央には花が鉢に入れられて置いてある。土の中から虫が出てこないように特殊なネットで土を包み、表面は竹炭で覆われている。花は食べられるエディブルフラワーとのこと。また運ばれてきたサラダは、このレストランが入っているビルの屋上にある屋上菜園で有機栽培されていると、各テーブルを回って挨拶しているシェフから説明があった。サラダには今日の午前中に屋上菜園で収穫されたリーフレタス、イタリアンパセリ、ブロッコリーが入っている。やはり屋上菜園で栽培された有機野菜は一味違う。エディブルフラワーの花びらを散らしながらサラダを食べた。
フランクは阿栗と夕食を共にしながら、一般社団法人ジャパンベジタブルコミュイティ(JVEC)の活動内容について阿栗から説明を聞いた。日本滞在中にJVECが栽培活動をしている都内の屋上菜園のいくつかを見学することになっている。既に見学の申請を出して許可をもらっている。フランクは建築家だ。シドニーのビルで屋上菜園を普及させる計画を持っている。明日はJVECの屋上菜園施工チームとの打ち合わせがある。施工チームの中には景観デザインの専門家も入っている。
また屋上菜園で収穫された野菜が地元のスーパーで販売されているとのことで施工チームとの打ち合わせの後、神田のスーパーを訪れることになった。屋上野菜コーナーがビルの名前付きでスーパーに設けられている。
今後オーストラリアで、また東南アジアで屋上菜園が増えていくことを阿栗は願っている。今後屋上菜園施工チーム、屋上菜園管理・運営チームの海外出張ということも出てくることだろう。
現代文明は社会を豊かにするために経済成長を目指してきた、そして今も目指している。それが結果的に自然資源を枯渇させ、環境悪化を引き起こしている。さらに人間が自然の中で、自然と共に生きる喜びを、自ら労働(農作業)して食べる糧を得る「農」の喜びを失いつつある。JVECは都市住民が、都市で働く人々が自然の中で農作業をすることによって、短時間でもパソコンの前から離れ、眼を休め、自然の中で土に触れ、野菜に触れ、大空を仰ぐことを奨めている。仲間と一緒に農作業をすれば、会話もはずみ、楽しさも増すことだろう。そして自然な形で生活感を共有するコミュイティも生まれていく。
都市住民の中には屋上菜園の農作業だけでなく、地上の畑での農作業にも向かう人々が増えていくのではないか。自然の中での農作業はこれからの時代、新しい「生きがい」になる可能性がある。「農作業」は安心・安全な野菜を食べて健康になるだけでなく、心の健康にも役立つ。現在「幸せ」を願う人々が増えている。テレビ広告、新聞広告にも幸せ、幸福という言葉が増えてきている。確かに幸せは大切だが、阿栗は「生きがいも大切」と考えている。生きがいと幸福を比較してみると重なる部分と異なる部分があることに気付く。
幸福感は現在の状態に幸福を感じる。生きがいは現在の幸福感も大切にするが、未来に向かう心の姿勢・希望を持っている。
幸福感は使命感を余り意識することはないが、生きがいは自分の使命感を強く意識している。どんなにささやかでも自分だからこそ、できることを大切にする。小さくても社会に対する自分なりの貢献につながっていく。
幸福感は困難を避けることを願うが、生きがいは困難を克服することを大切にする。克服する中で成長していく。場合によっては仲間と一緒に力を合わせて乗り切っていく。
有機栽培の野菜も同じような生き方をしている。気候変動、害虫、病気と戦いながら一緒に成長していく。
最後に。今までは経済成長⇒豊かな生活⇒幸福な人生、を国も人々も第一のこととして当然のように努力してきたが、豊かな生活を目指す結果、自然破壊を際限なく進めることになってしまった。しかし、忘れてはならないことは「自
然も有限である」ということである。
「農」は自然に直結した活動である。その意味では「農」の世界で自然破壊に歯止めをかけ、自然が再生、復活する活動が求められる。
「農」の世界は農家だけのものではない。都市住民のものでもある。農家と都市住民が一つになって協力し合うなかで、「農」の新しい世界が生れていく。
そして美しい自然が回復していく。
「阿栗満氏の農的生活」はこの第10話を持って完結します。
ご愛読、ありがとうございました。
(以上)
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