時代小説「欅風」(47) 才蔵 武士の身分を返上
才蔵は江戸下屋敷の徳田家老からの手紙を受け取った。文面には「1週間以内に江戸下屋敷に来るように」と書いてあった。才蔵は郷助の家族と暮らすうちに、自分は武士ではなく農民になった方が良いのではないかと思い始めていた。才蔵は気の病からは一生解放されないのではないかと諦めていたが、郷助の畑で次郎太と一緒に農作業をしているうちに、いつの間にか心の空の厚い曇り空が薄くなり、青空も見え、陽射しが入ってくるのを感じるようになっていた。生まれて初めて、「生きているとは嬉しいことだ」と思えるようになってきた。次郎太が最近、昼飯を食べている時に「才蔵さん、こんなことを言っては失礼かもしらんが、最近の才蔵さんはとても明るくなって、笑顔も増えただ」嬉しそうに言ったものだ。
「もしそうなら皆さんのお陰です。死にぞこないの私を受け入れてくれて、家族の一員のように大切にしてくれて、しかも農作業まで教えて頂いている。本当に感謝しています」
「才蔵さんは頭も良いし、学問もあり、いろいろ難しいことを知っている。物事を深く見つめることもできる。だどもあまり自分を見つめすぎない方が良いと思うだよ」
「次郎太さん。私はいつも自分のことを考え、考え過ぎてしまうんです。」
「何をいつも考えているだ」
「自分の弱さ、自分には生きる力、何が何でも生きぬいていこうという気持が欠けているのではないかと。どうしたらそのような力が持てるものか、最近はそのことばかり考えているんです。」
「才蔵さん。生きていれば辛く、悲しいことは付き物だ。思っても見なかったことが身に降りかかってくる。俺も戦さで両足を無くした時、死のうと思った。しかし、一緒に戦さに出た太郎吉さんが、俺を背負って「次郎太、村迄連れて帰るぞ。きっと助かる、死ぬなんて思うなよ」ずっと声をかけ続けてくれたんだ。俺は傷口の激しい痛みで気を失いかけていたが、太郎吉さんの背中の温かさはずっと感じていた。そして家に帰ってから兄やんが俺のことを大切な家族と言ってくれて、俺が働けるように車椅子まで作ってくれた。俺の命は自分だけのものじゃない、皆のものでもあるんだ。であれば、自分の命は皆の命とつながっている・・・心底そう思った。」
「ということは私の命は私だけのものではない。私の命は次郎太さんの命、郷助さんの命ともつながっている、ということでしょうか」
「そうさ。そしてもし俺が死んでも俺の命は孝吉の命の中で生きていく、と俺は思っているだよ」
「そうですか、そういう考え方もあるんですね」
「考えというより本気でそう思っているだ」
「本気ですか・・・そういえば私は本気になる、という経験もしたことがなかったかもしれない。いつも中途半端だった。半気だった」
「才蔵さん。本気になるためには自分で被っている殻を破らなければならないだよ。才蔵さんは今迄の人生、結局は人に決めて貰ってきたのじゃないかな。自分で自分の人生を決めることが大事だし、才蔵さんは今その時期にきているのかもしれないね」
「そうかもしれません。」
才蔵は徳田家老の手紙に対する答えを見つけたような気がした。
才蔵は板橋の江戸下屋敷に出向いた。
徳田家老が出てきた。「木賀、元気そうだな。まあ、中に入れ」家老は木賀の頭から足迄を見た後、「生き返ったようだな。何か土の匂いもする」
「その節は大変ご迷惑をお掛けしました。お蔭様で元気になりました。今は郷助さんのところで畑仕事と作業所の仕事を手伝っております。」
家老は少し改まった表情になって、言った。
「そうか。それでは下屋敷にそろそろ戻ってこんか。」
「ありがたいお言葉ですが、少し考えさせていただけないでしょうか」
家老は訝しげに「何か問題があるのか」苦虫を噛み潰したような不機嫌な表情に変った。
今迄の才蔵であれば、相手の表情に押されて本能的に自分の考え、気持を取り下げていた。
才蔵は自分を励ましながら、言った。
「私は郷助さんのところで生活しながら、そして働きながら、身の程ということを知りました。そして自分には何ができるかということも。しかし未だ途中です。まだその意味では修行中です。誠に勝手ながら、私は今の生活と仕事を続けたいと思っているのです」
家老は呟くように言った。「このまま行ったら木賀は農民になってしまうかもしれないな」
「私は農民と一緒に生活し、働いているうちに、自然の中で生きるとはどんなことか分かってきたような気がします」才蔵は穏やかに言葉を返した。
徳田家老は「実はな」と言って一杯茶を啜った後、「我藩の改革は順調に進んでいる。藩の財政も好転し、活気が出てきた。幕府の普請、大川の堤防の嵩上げ、大阪城真田丸の清掃も無事終り、今は桑名村44村の立て直しのご下命を賜り、始まったところだ。
ついては殿から藩の改革を進めるための人材を幅広く集めよ、との仰せがあった。木賀は我が藩きっての秀才との誉れが高い。殿もそれを知っておられる。今回のお話は殿から出たものなのじゃ」
「ありがたい思し召しでございます。そうであれば私も本当の気持をお話させて頂きたいと思います。今の私ではまだ使い物にはなりません。あと5年、せめて3年のご猶予をいただけないでしょうか。」
家老は才蔵の顔を見て、諦めたように言った。「決心は固そうだな。殿にはそのまま伝えよう。それでいいな」
「この度も家老様にはご迷惑をお掛けします。なにとぞ私のわがままをお許しください」
「もう下がってよい。明日、国許の殿に文を送ることにする。覚悟をしておくことだ」
才蔵は下屋敷の誰とも会わずに、そのまま郷助の家に戻った。次郎太は畑に出ていた。
野良着に急いで着替え、畑に向かった。次郎太は手を使って畑の畝間を歩いていた。
「今年も虫が多く出ている。今日は夕暮れ迄、虫取りだよ」
才蔵は畑の上の青空を仰いだ。
「そうだ。私はこの青空の下で、畑の風に吹かれながら生きていくのだ。それ以外に望むことなどないのだ。殿からどのようなお叱り、さらには沙汰を受けるか、分からないが私は私の道をこれからは生きていくのだ。
畑の中の虫も雑草も明日はどうなるか分からないのに、悩むことなく今の命を、今日という日を生きている。」
次郎太は最近農作業をしながら歌を歌っている。呟くような歌声なので言葉までは分からないが、単調な疲れる仕事を励ますような歌だ。
「次郎太さんは、歌が好きなんですな。私などは歌ったことなど今迄の人生で無かった」
「歌うと力が出てくるだ」
一ヵ月後また下屋敷から呼び出しがあった。
徳田家老の前に出ると、穏やかな表情で家老は言った。
「殿は木賀のわがままを聞いてくださった。その代わり、これからの三年間、武士の身分を返上して農民に成り切れ、との仰せじゃ。そして三年後、使い物になって藩に戻って参れ、国許の木賀の母親の生活は藩で面倒を見る、とのお言葉であった。」
「ありがたき思し召しでございます。これから三年間、励み、お役に立つような人間になりとう存じます」
「木賀、殿は厳しくも、心優しい方だ。元気に励め。郷助の方にはワシの方からも引き続き木賀が世話になることを伝えおく。」
その日の晩、夕餉の後の才蔵はこれからも世話になりたい旨、郷助と次郎太に伝えた。
二人は喜び、「ワシらの方からお願いしたいくらいですだ。これから三年間才蔵さんと一緒に暮らし、仕事ができるだな」
「私は武士の身分を返上します。ついては名前は才蔵ではなく、才吉と読んでくだされ。明日の朝、髪も切り、坊主頭になります。今迄は自分の中に甘えがあって、正直腰掛のような気持がありました。明日からは性根を入れて働きます。何か、気がつくことがあったら遠慮なく言ってください。」
その晩、才蔵は国許の母親のことを久しぶりに思った。父親が戦さで亡くなった後、母は女手一つで自分を育ててくれた。学問が出来る息子ということで母の期待は大きかった。
「母上、学問ができるだけでこの人生は生きていけないということが分かりました。随分遠回りしているようですが、待っていてください」
「才蔵さん、湯が沸いただよ。入ってくだせえ」タケの声に才蔵は我に返った。
「タケさん。それでは先に入れさせて頂きます」
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